anemog and the City

共働きOLの、「あれも、これも。どこででも」。

広告を生業とする人間の社会的価値。

元の記事がなくなったりしているので、ちょっと記録の意味でもコピペしておく。



「赤い張り紙」贈り主だれ? 阪神大震災13年後に判明(朝日新聞

 阪神大震災で、語り継がれた「なぞ」があった。電話がつながらず、行政機能もまひした当時、各地の避難所などでひときわ目立ち、被災者と家族や友人を結んだ赤い枠の伝言メモだ。誰がこの用紙を用意したのか分からないままだったが、震災から13年を前に、研究者が「広告マンのアイデアだった」と明らかにした。近く日本災害情報学会の会報で公表する。

赤い縁取りと「私はここに居ます」「We are Here」の文字がひときわ目立った伝言メモ=95年1月、神戸市役所で、吉井正彦さん撮影 当時の状況を思い出しながら語る岩崎富士男さん(左)と瀧川忠昭さん=大阪府河南町の大阪芸術大で
 震災を映像などで伝える「人と防災未来センター」(神戸市)の「防災未来館」。避難所の様子を伝える写真には、赤枠の張り紙がずらりとならぶ。A3判とはがき大。上部に「私はここに居ます」「We are Here」と印刷され、その下が伝言欄になっていた。

 当時、神戸市広報課長だった桜井誠一・保健福祉局長は「ずっと気になっていたんです」と言う。市庁舎の玄関にいつの間にか大量の張り紙の用紙が積まれていた。誰が届けたのかわからず、「海外のレスキュー隊では」とうわさされた。

 調査した吉井正彦・国立民族学博物館客員教授によると、博報堂関西支社(大阪市北区)が届けたものだった。

 13年前の1月17日、同社では、幹部が社員の安否確認に追われていた。夕方、支社長代理だった岩崎富士男さん(現・大阪芸術大教授)が、プロモーション局長の瀧川忠昭さん(同)を地下の喫茶店に誘った。「会社として何ができるか」と2人で考えた。

 岩崎さんは一足先に車で被災地の惨状を見ていた。目についたのが、ノートの切れ端やメモ用紙などに走り書きした伝言だった。

 「我々はコミュニケーションの専門家だ」

 CM制作に携わってきた岩崎さんがこだわったのが、シンプルな赤枠だった。「とにかく人に見てもらいたかった」。震災の翌日、予算を確保して発注した。

 発生から5日目、約60万枚の用紙をトラックに積み、西宮、芦屋、神戸の市役所や避難所を回り、用紙を詰めた段ボールを置いていった。

 その後、岩崎さんらはこのことを語らなかった。会社のPRに利用したくないという思いだけでなく、「あの惨状を前に何ができたか」という無力感もあったからだ。

 だが、赤枠の紙はその後も行政関係者や研究者の間で話題に上った。

 昨年10月、日本災害情報学会の会報に、ある会員が「誰がやったか不明のまま」と寄稿した。

 震災当時、博報堂の社員として事情を耳にしていた吉井さんがこれを目にして、かつての上司らに経緯を聞き取りした。

 吉井さんは「アナログでも情報を伝える手段の必要性を思い起こさせる出来事で、事実を記録しておきたい」と話している。






95年。10歳のころだなぁ。

広告業に魅力を感じなくなったとき、この話を思い出すようにしています。